2023年1月22日付朝日新聞

(窓)ちゅうにも届け、母の18年

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仲良しの3兄妹だった。(左から)ちゅうちゃんこと次男の安達雄大さん、長男の鉄朗さん、長女の七海さん。小さい頃、鉄朗さんは「雄大」が発音できず「ちゅうだい」となっていた。そこから雄大さんに「ちゅう」という呼び名がついた=七海さん提供
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(右から)七海さん、母の和美さん、鉄朗さん=2022年10月

  寒い冬の夜、自室のパソコンで開いた原稿は、18年前のあの日の記憶から始まっていた。

福岡市の安達七海さん(25)は一文一文を丁寧に目で追うにつれ、手が震え目頭が熱くなった。

原稿に記されていたのは、初めて知る母の苦しみ。そして8歳上の兄、「ちゅうちゃん」と呼んだ雄大さんのことだった。

友達が多くて、サッカーや釣りが大好きだった、ちゅうちゃん。青空が見えると外に駆けだしていった。家族でよく行ったキャンプでは、率先してテントをはったり、火をおこしたり。青空の下で汗を流す兄は頼もしかった。

しかし、2004年3月10日、事件は起きた。

知り合いの家でバザーの準備をしていると、母親の和美さんの携帯電話が鳴った。「ちゅうが学校でケガしたらしいけん、ここで待ってて」。そう言い、慌ただしく出て行った。

翌日、家族の誰かから、ちゅうちゃんが亡くなったことを聞いた。

その後のことはおぼろげだ。ひつぎに入り、仏間に寝かされたちゅうちゃんが怖く見えたこと、火葬場で大泣きしたこと。それ以外の記憶が抜け落ちている。

長崎市の市立中学校に通っていたちゅうちゃんは、ライターを持ち込んでいたところを先生に見つかった。トイレの掃除用具入れに押し込まれ、ほかに喫煙している友人の名を挙げさせられた。

指導が終わったのち、「トイレに行く」と告げ、校舎から飛び降りた。残されたノートには、友人や親への感謝と謝罪の言葉が並んでいた――

事件の後、ちゅうちゃんがいなくなった食卓は広く感じた。そんな中でも不安を覚えずにすんだのは、母のおかげだった。「今日は何したと」。以前と変わらず、その日あったことを優しく聞いてくれた。

その一方で、毎日のように人に会いに行っているようだった。弁護士や支援者の人たちだと、後から知った。約2年後、教師の行きすぎた指導があったと、長崎市を相手に損害賠償を求める裁判を始めた。介護の仕事をしながら自分と同じように校内で子どもを亡くした親と連絡を取り、教師の指導のあり方を考える勉強会にも参加した。

事件から4年後の08年6月、長崎地裁は自殺の予見は難しかったとして市側の過失は認めなかった

ものの、指導が自殺につながったと認定した。

七海さんは看護大学を卒業し、独り立ちをした。21年9月、母から「本を出したいんだ」とLINEが届いた。不適切な指導で子どもが亡くなる事実、教師の指導のあり方について、社会に問題提起したい――。そして、「日に日にちゅうの記憶が薄れていく。今のうちにちゅうの記録を残したい」。

4カ月後、母が書いた原稿が送られてきた。

事件当日の様子、責任を認めない学校側との苦しい交渉、そして努めて子どもの前で明るく振る舞っていたこと――。原稿を読み、必ず出版させてあげたいと思った。

ネットで資金を募るクラウドファンディングを使うと、母が支援活動で出会った仲間や、ちゅうちゃんの同級生から想像以上の支援が集まった。本のタイトルは「学校で命を落とすということ」。

表紙は、兄が大好きだった青い空の色。ちゅうちゃんにも届けと思いを込めた。

(田中紳顕)

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