平成30年7月7日 朝日新聞

(私の視点)「指導死」の定義 虐待と使い分け明確化を 喜多明人

最近、子どもの「指導死」という言葉が注目されている。昨春起きた、福井県池田町の中学2年生男子生徒の「自死」事件も、過度の叱責による「指導死」問題として、マスコミで大きく取り上げられてきた。

この言葉は、過剰叱責、暴言や体罰などで自死に追い込まれた生徒の保護者、被害者家族の間で使われ始めた。「生徒指導をきっかけ、あるいは原因とした子どもの自殺」という定義のもと、教師個人の生徒指導上の過失責任を追及してきた言葉である。

「指導」という名における教師との抗しがたい権力関係の中で、自死へと追い詰められる生徒の悲劇をなんとか社会問題化したいとの被害者の切実な思いを受け、法曹界やマスコミ、学会や市民団体などが使ってきた。

被害者家族が使うのは当然としても、十分な吟味もせずに今後も使い続けてよいのか、疑問が残る。

まず、対象範囲が広すぎる。そのため、問題行為を逆に見えにくくしている。問われるべきは、教師が「あらゆる形態の身体的または精神的な暴力、侵害または虐待」(子どもの権利条約19条)に相当する行為をした場合だ。

体罰やセクハラはもちろん、子どもが傷つく言葉の暴力などはすべて、虐待である。大勢の前で見せしめのように叱ることや、反論する権利を奪うこともあってはならない。社会問題として強く打ち出すためにも、言葉の使い方を分けたほうがいい。福井のケースも「学校内虐待死」と言うべきではないか。

もう一つ考えるべきことは、指導全体が教師の個人責任追及の対象とみなされてしまえば、萎縮をまねく恐れがあることだ。

個人の過失責任ばかりが問われると、教師は子どもを叱れなくなる。ただでさえ学生が教師をめざさなくなるなか、優秀な人材の確保はますます困難になりかねない。

あくまでも「子どもの最善の利益」(子どもの権利条約3条)を考えなければならない。

今日、被害者救済が進展してきたことは喜ばしいことだ。しかし、子どもの主体性を尊重し、子ども自身がどこに問題があるかに気づき、自省し、成長していく過程を支える指導も戒めるかのような言葉の使い方は、するべきではない。

いじめという問題が起きれば、まず、子どもたち自身で抑制のしくみを考えていく。こうしたケースは、子どもの成長を支える指導のひとつだろう。問題行動への対応方法を確立しているNPOもあるので、そのような団体に学んでもいい。子どもの尊厳を大切にした指導を共有し、いい教師を育てていくことこそ、遺族、被害者の思い、訴えを受けとめ直していくことだと考える。

(きたあきと 早稲田大学教授)

◆投稿はsiten@asahi.comか、〒104・8011(住所不要)朝日新聞オピニオン面「私の視点」係へ。電子メディアにも掲載します。

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